キモオタをやめて得たこと、失ったこと

 

かつて私はオタクだった。キモい方の。いとこの影響だった。

田舎の小学校に通って同級生が一桁しかいない閉鎖された空間で過ごしていた私には週一で遊びにくる同級生のいとこが持っているものが新鮮だった。いとこの持っているもので、今でも一番羨ましいのは 姉 だ。ずっと兄か姉が欲しかった。上の存在があることで持っている物や情報や言葉の知識が全然変わる。弟と妹しかいなくて幼稚園にも友達がいない私は いとこ二人が喧嘩している時に間に入って呑気に聞いたのだ。

「ばかってなあに?」

硬直してた。明快な説明もなかった。5歳くらいの女の子の質問に5歳と10歳が果たして「馬鹿」の意味を答えられるだろうか。20歳の私でもうまく説明できないだろうし、「そんなこと言っちゃダメ」って答えるだろうな。

それくらい日常茶飯事に使われるような感覚的な言葉の意味を相手に問いたことがあるだろうか。記憶の中に「バカって何?」と「バカ」の言葉の意味を問いただすような思い出があるだろうか。

新鮮だった。そんな些細なことまで分からないくらい一人だった。きっと たぶん、分かんないけど

お母さんは弟や妹で手がいっぱいだったし、お父さんは火曜日休みで幼稚園に行っている間私以外の家族でお買い物行ってたし。幼稚園では友達いないし、いじめにあってたし

だから、半年先に生まれたいとこに 気に入られたくて 妹みたいに扱って欲しくて 更には 羨ましくて 憧れて 真似ていたかったんだと思う。 

それはそれは長く続いた。

キモオタをやめようとした高校一年の時に、いとこへの崇拝は終わった。

同時にずっといとこの方が大きかった身長も追い越し、8冊くらい続いた交換ノートも終わった。返ってこなくなった。永遠に続く予定だったのに

 

小さい頃から無意識にアニメは見ていた。再放送もふくめて、キテレツ、ブラックジャックハム太郎カービィ、らんま、カードキャプターさくら、あたしンチ、ラスカル、ドラえもん、もっともっとたくさん見ていたけどあげだすとキリないね。ボボボーボボーボボ

私は小学校から中学校の時、どれくらいのキモオタだったかというと、

太鼓の達人で「ハレ晴れユカイ」むずかしいしたり、

自主製作で漫画描いたり、

ちゃおを読むのをやめてジャンプ読んだり、

TSUTAYAで借りて「らき☆すた」見たり。

 

パソコンが(触らせてもらえ)なかったし、田舎だったので深夜アニメもやってないから神聖のオタクには「はっwwwこの程度でwwww」と思われるにわかのオタクかもしれない。

 

中学生のときは、

あるキャラクターのスチル?が一枚足りないため、乙女ゲームをするいとこの横で樹形図を書いたり、

交換ノートにいとこが「腐女子」のことについて色々書くものの、私の知識を汚さないためかはっきりとしたことは書いておらず、「腐系←wwwry」の意味が分からないものの、相変わらずパソコンには触らせてもらえないので「腐女子」をオタクの最上級みたいな感じで受け取り、意味が分からないまま、腐女子じゃないのに腐女子を名乗り出したり、

友人に「このキャラクターのマフラーは**の柔軟剤で洗ってそうだよね!」と言われ限界を感じたり、

ライトノベル文学少女」を読んで拗らせ、紙を食べてみたり、

 中学では深夜アニメを見たり、漫画を読んだりする人の方が多かったから私も大っぴらにオタクを謳歌していた。

パソコンがないとオタク活動にも限界があるね。自分よりも想像が豊かすぎるオタクを前に諦めていた。私にはこんなことまで考えられないよ...って。完全に手探りでオタクをやってた。

でも、このくらい高校で巻き返せたはず。

受験が終わったと同時に私は携帯電話、スマートフォンを手にいれられたから。さすがに検索履歴や友人との連絡まで監視するような親ではなかった。だからスマートフォンを手に入れて自由にyoutubeで音楽が聴けることがめちゃくちゃ嬉しかったし、沖田総悟の画像保存しまくった。

 

しかし、この沖田さんの画像は三ヶ月後くらいに全て消すことになる。

高校へ行き、デビューをするつもりはなかったが、猫の皮をかぶる。中学の知り合いがたくさんいる高校に行ったのに二分の一の確率のクラス編成なのに友人はほとんどいなかった。周りに知り合いがいないこと、隣の席が茶髪に染めてて、訛りもあって口が悪い女子だった。怖くて、周りを見渡して決めた。

表向きの「オタク」をやめて「フツウ」の「わたし」を演じることに。

もちろん、家では高校卒業までジャンプ読んでたし、アニメ見てたし 一番くじ引いてたけど、「わたし」を「見られる」ことを意識した上で考えながら学校では生活した。

中途半端な「にわか」に落ち着き、追い求めすぎず、おしゃれな子全員ではないけど、話せるようになった。二年で仲良くなった美術部の女の子の乙女ゲームの話も漫画の話もある程度話し合ったり、聞くことにも抵抗がなかった。

どこにいても「嫌悪」がなかった。なんとなく、誰とでも話せた。

しかし、どこにいても「強い」繋がり、というか絶対的な何かはなかった。どこにいても、私は「わたし」の立ち位置があってスクールカースト上位には入られないし、美術部の子達には美術部の世界があった。私は吹奏楽部。しかも、吹奏楽を真面目にやってたって他の部員に認められた唯一の吹奏楽部。

オタクをやめてよかったことは、色んな人の意見を表面上聞かせてもらえることが多かったこと。どこにいても、浅く広く、時々中学からの友達がいれば少し深く、立ち位置を変えず笑っていられたこと。上手く道化できたつもりだけど、本音を言わないのはバレているみたいで、それが許されたのが救いかな。

オタクをやめる選択肢をしていなければ、今ごろきっと「好きなもの」を大きな声で言えることができたかもしれない。「好きなもの」を諦めず、もっと人と深い関わりができて、創作なんかしちゃってイベントとかを楽しめる全く別の人生があったかも。いや、喜んで与えられる側をしていたかも。

私は前者の「わたし」をとったけど、かつていた「オタク」は、本棚を見れば大量の愛した漫画と少しのグッズがあって、それは今できない「好きなものを叫んでいる自分」がいて私にはそれを捨てられない今がある。今の私をつくったまぎれもない過去の私がそこにいる。

「オタク」をやめなければよかったと思うことは、あの頃のみんなと「好き」を謳歌できた自分がいたかもしれないこと。でも、もうツムツムして「この時間がなんの役に立つのか」考えた時から私の思考はドライに現実を生きている。

色んな感情と思い出だけ、今はありがとう。

 

 

 

 

お題「わたしの黒歴史」