ラーメンとお寿司

 

 ラーメンとお寿司が好きじゃない。

概念的として存在が苦手だ。食べられるし、味が嫌いというわけではない。うにといくらは味が好きじゃないし、しょっぱすぎるラーメンも食べ物の「好き」と「嫌い」に表せる不快な方の嫌いな部類に入るけれど、ネタをなんにしろ、味をなんにしろ、ラーメンとお寿司が好きじゃない。

小学校高学年の一時期、よく外食に行く機会があった。毎回ラーメンかお寿司だった。その頃は好きとか嫌いだとか、何とも思わず家族について行って、でも、私の家は貧乏だから、という先入観から遠慮して一番安いラーメンを頼んだりしてた。値段が見えてしまうことが負荷だったのかもしれない。お母さんがつくるご飯にはメニューのようにおよそ一食にいくらかかるだとか、そういうのがないから安心して食べられたのに、家族五人分の外食を4000円弱だとしても、子どものおこづかいと比べたら大金だし、誕生日にしか買ってもらえないポケモンのゲームソフトの値段と同じで、それが頭の中で繋がって、メニューを見るときに罪悪感が伴った。

弟はお寿司が好きでよく食べた。私の倍くらいよく食べて、食べ過ぎて帰宅後吐いてた。吐いたことに対してだけうわあと思った。黙っていたけど、そんなのを横目に見てからも外食へ行く週末が続き、車の中で「何食べたい?」と明るく問いかけてくる親にふと口をついて言ってしまった。

「ラーメンとお寿司が嫌い」

たぶん、行きたくないだけだったのが一周してこうなったのである。小学生の私は上手く外食が嫌だと言えなかったのである。後部座席に座る私は前の席に座る親に「ラーメンとお寿司が嫌いなんてありえない」と言われ、ひかれた。「お前がそんなこと言うせいで行きづらくなった」と言いながらも、私以外のみんなが好きなラーメンかお寿司屋さんへと車は向かうのだった。

ふと口をついて出た言葉が「なんとなく」居心地の悪い外食だっただけなのが、決定打となり、ラーメンとお寿司に抱いていた不快感が私の中で好きじゃない存在であるということを明確にした。

 

 たいていの人はラーメンとお寿司が好きだ。

「週3で寿司行った」と誇らしげに言う友人。好きな回転寿司のお店の名前を言い合う友人。「回らないお寿司しか行ったことがない」と言う友人。そのどれもに「どうでもいい」と「羨ましい」という感情が同居した。なんの屈託もなく「お寿司が好き」という当たり前を所持している様子に羨ましいと思った。

こんなことを素直に言ってはいけないのだと「ありえない人間」として拒絶されてしまうのだと子どもの時に理解して、ラーメンにもお寿司にも何も障害がないフリをして生きている。

友達とご飯に行くときラーメンでもお寿司でも提案されれば「いいよ行こう」と言う。二郎系のラーメン以外はまだ断ったことはない。

私は、ラーメンやお寿司にお金を払っていると思わない。食費じゃなくて、これは友達とご飯を食べるために交際費を支払っているのだ。居場所と同じ空間にいて同じものを食べる寂しさを埋める行為に「いただきます」「ごちそうさまでした」と言う。

よくラーメンを一緒に食べに行く友人に「あなたの誕生日においしいお寿司屋さん行こうって言ったの覚えてる?」と聞かれ、そんなこと言われたっけ?と同時にあぁ、ごめんなさいと思う。私がそこに彼女と同じ価値を置いていないことを彼女が知ったらもうたぶん誘ってもらえないような気がする。今までの一緒に食事をした時間分悲しませるだろう。彼女には墓場でも言わないつもりでいる。そのお寿司はやんわり断った。逆なら全然行く。彼女が生まれたお祝いに彼女の好きなお寿司を私がお金を払って一緒に食べる時間を過ごす。このベクトルが反対になってそのお寿司の美味しさに私がお寿司を好きになったらハッピーだけど、そうならなかったら虚しい。

みんなの顔と合わせるのだ。気付かれないように「おいしい」といいながら口へ運んでいく麺、チャーシュー、スープ、餃子、エビ、えび、エビ、わさび、メンマ、海苔。私と、ラーメンとお寿司が好きな全人類との壁をつくるそんな存在であるラーメンとお寿司。外食する際に私は道化して嫌いな存在にお金を払う。一生嫌いかもしれない憎きラーメンと寿司。

 

好きなネタ、強いていうなら味と食感とフォルムでエビ。