大人になっても

 

 

長縄跳びのことを考えながら炎天下の中、補講期間と呼ばれる今日も学校へ向かった。

アパートから学校までは坂、上り坂。ドンキで買ったけど小さくてはけないからと譲ってもらった黒いスニーカーの底が薄いのか坂を半分も登っていないところでとても熱くなる。

今日は長縄跳びについて考えながら登校した。

 

八の字に走り、跳んでいく長縄跳び。私の小学6年生の頃の担任の先生は、長縄跳びに力を入れていた。ひとつ上の先輩たちを越えよう!と一年前受け持っていた先生のクラスの最大跳んだ回数を伝えられ、体育の時間に一分間に跳んだ最高記録だけが黒板に更新されていく。

正直、運動全般が苦手だ。走るのはクラスで二番目に遅かったし、泳ぐのも母親が心配して25m泳げるようになろう!みたいな三ヶ月限定のスイミングスクールに通わせてくれて、やっと人並みに泳ぐことができた。

長縄跳びは冬の間だけ行われていた。先生と一人の生徒が縄を回して残りの生徒が走って縄の中に飛び込んでいく。田舎の小学校だったので同級生が10人。縄を廻す生徒が抜けて9人。テレビで見る同い年くらいの小学生は30人くらいの生徒が自分の番を待って縄を跳んでいたが、私たちはたったの9人。誰かが休めばそれ以下で、ほぼ一分間走り続けながら縄の中に飛び込んでいく。

上手く跳べるかな、ひっかからないかな、後ろの子に、前の子に迷惑をかけてないかな、私の体に縄がまとわりつかないかな、跳びながらいくつもの失敗を予想して緊張していた。ストイックに記録を更新し続ける日々にドキドキしていた。運動音痴だが、廻す方にはいかなかった。保健室登校気味だった胸の大きい子か、もう一人回したいと立候補する男子に任せていた。

誰かが失敗すると安心した。あ、これで最高記録は更新されないなって、私がひっかかっても私だけが責められるわけじゃないもんなって思った。

誰かが失敗するまではドキドキしながら、でもちゃんと跳んでいた。みんなと同じように前の子にくっついてって見えない縄の音と一緒に跳んで抜ける。緊張感でお腹がキリキリし、息も切れ切れだったけど、はみ出すことなくリズムにのることができた。

 

 

人生って長縄跳びみたいだなってふと思った。一緒に成長していく過程の横にいる人間と同じように進学したり、就職したり。高校に無事入って卒業して、来年の3月には大学を卒業し、4月から働く。私は大きな目で見るとあんまり引っ掛かることなく過ごしてきている。別にそれが立派なことではない。もっと高く、速いスピードを設定すれば、ひっかかってしまったかもしれないが、自分にあった/もしくはレベルの低いところをぬるぬる生きているだけかもしれない。

細かなとこではたくさん躓いている。化学で赤点とったり、バイトが上手くいかなかったり、親に反抗したり、失恋したり、運転免許を持っているが自分の運転で酔ったり、一人で夜泣いたり。

大事なことはたぶん、躓かないでみんなと同じように跳ぶことじゃない。

躓いたときにどうやってそれを乗り越えるかだ。そしてその本質として問題をどうみるか、どう解決するかの視野を広く持たなければいけない。跳び越えるためにどうしたらいいか、その解決方法を分かっていれば問題はないけれど、間違っているとき、分からないとき、きっと努力だけでは埋まらないときがある。そういうとき、周りの人間に聞いてみる。正解を知っているかは分からないけど、自分が見えなかった解き方を知っているかもしれない。周りの声を鵜呑みにしなくてもいい。選択と決断をして行動するのは自分だから。ただ独りよがりにならない方がずっといい。自分を別の角度から見てくれるそんな人がいるといい。これはある程度いるけど、わざわざ伝えてくれる人はいないから自分から聞きにいかなければいけない。ただ自分のことを話して話に焦点を当てながら慎重にね。

正しい方向に努力すればきっと跳べるから。頑張っているところを見てくれる人はいると思うから。腐らずにね、もう少しだよ。跳んだ先にはあんまり変わった世界はないけれど、それはきっと自信に変わっているからね。

失敗して諦めても生きてね。その失敗の努力はいつかまた別の縄を跳ぶための解き方になるからね。

 

 

幼稚園の時、走り縄跳びできなくて、私だけ回すフリしながら運動会でて、お母さん泣いたそうです。本当にごめんなさい。

縄跳びずっとずっと苦手だな。たぶん生きてくのもずっとずっと人より練習するか、ハードルさげてやってくしかないんだろうけど、ひとつひとつ積み重ねて人生だからね。リズムにのるんじゃなくて自分のリズムを生きていこうね