前を向け

 

久しぶりにブログを書く。

最近は専ら、思ったことは言うという戦略に変更しているので、考えたことを外に出す機会が多かったり、何も考えていないだけなのかもしれない。

でも、好きなものや好きな理由を大きな声で言わないようにしたい。大切なことは書き記すか、自分の中だけで抱きしめていよう。安売りしないでいこうと人付き合いのなかでふとなんとなく強めに思うのだ。だから久しぶりに更新する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「卒業したくないなあ」

と呟く同じ学科の人間のその言葉の指す意味を考える。友人達と思うように会えなくなるからなのか、この学生という名の時間の使い方なのか、好きなものを好きなように作れるこの環境からか、この人が少ないのんびりとした土地を離れたくないのか。どこをなぞっても「卒業したくない」という感情にピンと来なかった。私にとってはお金を自由に使えない、この慣れた早々劇的に変わることもない温い人間関係という環境は絶賛変えたい。あのアパートは好きだし、この人の少なさ加減は丁度いい。強いて言うなれば、週に一回ゼミ室に集まり、みんなでお話しているときに小さな声で発生する内緒話を「え?なになに?」とニコニコして聞いてくる普段は見せない先生の可愛いお顔を眺めてたいと思う。

でも、言っても私はデザインすることが怖い。何が綺麗で流行りで廃りで今っぽくてかっこよくておしゃれなのか。自分に似合うもの、合うもの、正しいものを判断することも困難なのに、自ら作り出すというのはよく分からない。みんなで同じ課題に取り組んでいるときに、正解不正解が分からない。大きく外してしまっているものは分かるけど、自分が作り出すものに自信が持てない。よく見て感じて研ぎ澄ますしかない。でも見て感じて真似をしてしまうように感じている。ピンタレストもインスタグラムもどこか怖い。デザインを学ぶために先生のゼミに配属したのに、このざまだ。卒業を引き止める理由は見当たらない。

先生はいつも声が小さい。自覚しているのに声が小さい。だから大勢で授業するのに向いていないと思う。一年生のときに声が小さくて聞こえないのと、難しい話をしている気がしてこの人には近づかないだろうなと思っていたが、ゼミに入った。第一希望は違ったけれど、そういう運命なんだと受け止めた。たぶん合っているだからここに配属されたのだとなんとなく納得させて手探りでゼミに出席していた。

四年生がするのは卒業制作だ。卒業制作をするにあたって、多くのみんなは「絶対に賞をとりたい」または「卒業できればいい」と口にする。先生はなんかの話の流れで「卒業制作をしてそれが生きる力になればいい」といつものように小さな声でふと言った。当たり前のことであるように、いつもと変わらない温度で、それがうんと大切なことであるようには話さなかった。それを聞き逃さなかった。

 

 

教職の授業でよく「生きる力」という単語がでてきた。生きる力を育む授業を行おうと指導される。果たして「生きる力」とはなんのことを指すのだろう。国語でも数学でも、理科社会英語美術音楽体育じゃない。自ら考えて選択していくことを指すのだと私はそれらの授業で解釈し、レポートを何枚も書いた。

 

 

でも、先生がおっしゃる生きる力とはまた別のことかもしれない。この経験がふと折れそうになったときに自分を繋ぐきっかけに、記憶になればいいいうことなのではないかと勝手に思っている。

だから私の卒業制作の目的は賞をとることではなく、卒業するのはもちろん、だけどちゃんとここを卒業しても、先生のもとを離れてもなお、生きていく力を身につけるのだ。どちらのモチベーションにも揺らがないで、考えて、私の大切を大切に守って完成させるのだ。そうして最後の学生生活を彩っていく。振り返ったときに見える色は違えど、形として残る思い出を記憶を作るのだ。

 

あと半年、週に一度先生の美しいお顔を眺めながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#わたしの自立

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