不透明から

 

 

知り合いに10月生まれがとても多い。毎日誰かの誕生日だった気がする。

人の誕生日を覚えるのが得意だったが、20歳の誕生日の夜、バイトで5年に一度の衛生調査が次の日に入るからという理由でお店を閉めた後に普段は業務内容に組み込まれていない「トイレ掃除」をした。店長に「お前は大変なときばかり(シフトが入っている)だな」と言われ、分かってた上で人の誕生日にシフトを入れてきたマネージャーのことを横目に、私の人生こんなか、誕生日ですら他人の悪意に支配されるのか、と思った。

バイトが終わってアパートに着いたら、玄関のドアノブにタラコとコンビニスイーツが入ったビニール袋がぶら下がっていて、友人2人の名前が書いてあった。私がトイレを掃除している間にこれを買ってきてくれて下げて二人でどこかにご飯を食べに行ったんだろうなと予測できた。余計に悲しくなって玄関でうずくまって泣いた。

他人にとって誕生日って割とどうでもいいことなんだな、というか、私がどうでもいい人間なのかなと思い知らされて、ずっと抱いていた誕生日の特別感がスッと消えて人の誕生日を覚えるのが苦手になった。このエピソード一生忘れる気がしないな。

暗い気持ちになりましたね。

 

この調子で大事な友人の誕生日をすっぱり忘れていて猛省した。2日後に本当にごめんと謝罪しておめでとうと連絡した。最低だった。

 

誕生日といい、年賀状といい、物理的距離が離れた相手との安否確認のように連絡をとる手段のようだ。今年は自分から何人かに送った。二人から返ってきて、何人かはラインで、一人くらいが音沙汰なしだった。自発的に行動しないと私には繋がりなんかどこにもないんじゃないかと思う。しかし、来年は喪中だ。母から喪中のハガキ何枚欲しいか問われたが贈る相手の顔が全く浮かばなかった。とりあえずの「2枚お願いします」と答えた。

 

みんなのインスタグラムに映る思い出の写真や複数で撮っている写真に自分はいない。タグつけされたこともない。「来年就職先はどこなの?」に答える必要性はあるのか分からない。遊ばないでしょう。新しい環境と新しい出会いにより私と会う時間なんてないでしょう。それが分かっていて今遊んでくれる友達が好きだ。割り切ってて「来年からはまた新しい友達ができるんだよ」これで離れ離れになるのは分かっているよ。だから今遊んでくれる友達が友達だ。

人間関係なんてそんなものなのよと時々言い聞かせる。要るものと要らないもので分別するのはこの居場所があるからで、次へと移動する際には、要るもの・要らないものじゃなくて大切なものだけなのだ。

空気がうんと冷たい。シンと染みる。始まったばかりのように思うけどもう終わりなのだ。終わりに向かって平らになっていくだけ。

何かしたかったら、何か残したかったら、自分で動くのが一番楽で早くて簡単なんだけど、全部やろうと思うとしんどいから協力してくれる信頼できる相手がいるといい。なんで私ばっかり!で怒ってしまうくらい私はまだ力もなくて強くもない。そんな信頼できる相手もいないから全部諦めて歩くんだ。こんなんでいいのかな。誰も白黒はっきり教えてくれないグレーのまま、そのうち見えなくなってしまうんだろう。