しあわせだなと想ったこと

 

東京へ来て1年と一ヶ月がたった。もっと子どもの頃思っていたような、普通に会社へ行って働くことが当たり前がいってん、こんな状況。ずっと在宅ワーク。最初の頃は家でさみしい、しぬ!と思っていたけれどもう、長期休暇明けの学校行くの怖い感覚になっている。部活に行って会う人には会っていたけど、二ヶ月弱顔を合わせていない人もいるような、何かが変わっちゃったんじゃないか空間に押し込められる時の緊張感、自分でバリアを張っている。

 

文字が読める日と読めない日、文章が書ける日と書けない日。一日中歌っている日と上手く声がでない日。無駄にポジティブな日となかなか縦になれない日。びっくりマークで返信する日といいねで終わる日。全然眠れない日と寝落ちする日。食欲がない日とおいしいご飯がつくれて嬉しい日。喋るのを遮ってしまう日と相槌も打てない日。どうでもいいけど、思ったことを報告したら聞いてくれるともだちには「なんでいつもゼロか100なの」と言われて笑った。

 

愛を伝えることと、フることの心に残ったセリフをつらつらとインターネットで見ては、愛なんて伝えたことがないなぁと思う。

空気を吸って

 

肋骨の中に電気が走る 撃たれる 惚気を蹴飛ばす 手の届かない野菜 着るはずだった春服 食べたいものが思い浮かばない食品コーナー  全部流れてく 流してく 暗い部屋で咲いたしろい芍薬  空気を歩いては他人のおゆうはんと秋を想う 1週間後しぬとしたらと仮定して たかが世界の終わりみたい 間違って手首を切って 滲む色を見て なるほど 2ヶ月ぶりの記帳 不幸を直視したくないけど 不幸の時の方が解像度が高い 時間をもてあますわたしはしあわせなはず 手足をのびのびと伸ばして ここにいてもいいんだという安心感が今いちばんほしいもの 

上長をきらいになって 久しぶりに人間不信 食に興味がないことに気がついて むちゅうでごはん食べたのいつだっけな お母さんに胃袋つかまれてる 自分のこときらいなの思い出して きらいになったものを数えてたら溢れた 咳をしてもひとり ずっとひとり とまらん鼻汁 コンタック 全部タイミング悪い バイバイ

ともだちをすきになった 歌を聴いて 嗚咽 手がビチョビチョになって 喉がぎゅっとして 生きてるって実感した 強くなって強くなくてもいいんだと言えるような人になりたい

 

前髪早く伸びてほしい

 

あと何回くらい思えばそんなこと忘れるのかな

 

この人はこれで伝わると思ってるんだろうか問題にぶち当たるとき、私の読解力が試されているような気がして、めちゃくちゃに考えるようになった。すぐ聞けないな対面じゃないと。これが今困っていることかなぁ。

夜、外に出たら夏のにおいがして、悲しいけど本当にもうすぐに秋がきちゃうんだろうなって思った。5月に秋を感じたの初めて。歳を取ってる気がする。

 

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左耳のピアスの穴が塞がった。

キツくしめすぎると、ピアスをあけたての頃は耳の中にファーストピアスが入ってしまうことがあるんだって。それをとってもらって耳を安静にしてたら塞がった。右耳だけ空いたまま、どうしようか。

今日はバイトじゃないのに、鍵を返しに行かなきゃいけない。雪と距離を考慮して友人が車を出してくれた。頼られて嫌な思いをするから頼ることが苦手なのかもしれない。

 

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バイトへ行った。

なんだか分からないけどずっとイライラしていた。帰宅してほくろ占いを見て即忘れた。

知らない人とチャットした。絵文字の感じがキライだからすぐに退会した。苦手な人間から逃げる。インターネットだと相手のことを全く考えていない。殴られることもないし、暴言吐かれることも、吐かれていたとして私を特定することもできないと思っている。

 

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午後からバイト。

帰って友達からザッハトルテをもらった。おうちでガチャガチャで集めた3000円分のフレンズたちを見せてもらってたくさん笑った。おやつじゃない方の3時に解散して、お風呂に入って4時に寝た。

 

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NHKで18祭を見て号泣した午前中。

お昼寝して暗くなって、歩きたくなって買い物へ行った。しまむらで900円の転んだら破れそうなスキニーを買った。

 

スキニーは破れることなくまだ健在。

日々

 

お元気ですか。

 

私はちゅうぶらりんで、日々どうしたらいいのか分からず、ただただ時間を垂れ流しています。この事が片付いたとして、待っているのは元いたような日常じゃなくて、全く別の新しい生活な気がしている。それが私の選択してきたものを覆すような受け入れられないあれだったら、自分がやりたいこと、できること、生きていくことについてやっぱり見つめ直さなきゃいけないと思うのだけど、もやもやもやもやしている。何度、孤独に慣れた気がしてもやっぱり、誰かからかかってくる電話を切れない。連絡がきたらしっぽふってるじぶんがいる。この有限だけどゴールの見えない無限な気がする時間でも手を動かしたい。

書き溜めていた時差日記を記録していこうかなぁという気持ち。

チコちゃんを見て、「大人はなんで一年が早く感じるの?ときめきがないから!」にしっくりこなくて、始めた日記。いちねん続けるぞと思いつつ、いちねん続かなかった。けど、手製本はもう十分の一も残っていない。あんまり大したことは、書いてないけど、まいにちがあったとういことをこうして一年経った今振り返れるのはいい時間潰しで過去の自分からのサプライズのよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

0108

ゼミがあった。この紙の名前はなーんだ?という先生の問いにヴァンヌーボとアランベールと答えた。「お。」と言われ、でも、どっちがどっちかは忘れました。と言った。肝心なことはなにも覚えていない。

---メモ

ヴァンヌーボがより、高価で白

アランベールが画用紙みたいにザラザラしてる

 

 

0109

久しぶりに直角三角形の比率

1 1 √2 と √3 2 1 の話をして面白かった。

台を作るために、ホワイトボードに書いてこれをベースにして計算すればいいんだよね!と確認のための数学の話だったみたい。高校の数学って役に立つんだな、役に立ったのかなぁ?

 

 

 

0110

はやおきをした。

レポートに手こずってしまった。この日の、この時間までと自分で締め切りを作っても時間のギリギリのギリまで粘ってしまう。ジカン、ユウゲン。

モスバーガーへ連れてってもらって作業をした。自分と同じように焦っている人と一緒にいることで安心するような、相談して聞いてもらって、でも余裕がないことを互いにわかっていて、傷を舐め合ってるような時間だった。

普段は寒いのに、テスト期間の◯大生がたくさんいたからかとてもあたたかかった。

 

 

花粉症だから病んでる

 

春、びっくりするくらいはやいですね。

 

ひとりの華金、カラオケに5時間費やして わたし、こんな声でるんだって新発見した。4時に帰っても意地でシャワーを浴びて、布団の上で眠って11時には飛び起きて、おでかけ。

 

プールに入って、泳いでみたら水のなかってとても綺麗で、途中でカラオケで筋肉痛になった右腕がとれそうだった。わたし、跳び箱八段とべた日もあったな なんて思いながら小学生に追い越された。つかれてお昼寝をして夜。

 

 

新宿御苑へ行って、いっぱいの鯉を見た。「きもちわるーい」と隣で正直な感想が飛んでいる。梅なら花粉つらくないね、とお花見をしていたら既に寒桜が咲いていた。温室の前で「よーし、ハートをいっぱい見つけられたら勝ちね」と言って、ハートを見つけるより、葉っぱの感情を想像するあなたには勝てっこないね。

 

かわいいをちゃんとやってる女の子たちはまぶしい。気がついたことがひとつあって、グループで同性の友情を築くの、苦手。知らず知らずの間にくっきりそう生きてきてしまった。

 

身体検査じゃなくて、身体測定でもなくて、健康診断。大人になったっていうか、老けたなと思う。

もう身長は伸びないみたい。

酔ってる

 

 

 

財布を新調した。40歳くらいまで使うつもり。欲しいなって夢に見て本当に買う日がくるなんて、と思う。

デパコスとか高そうなブランドのお店屋さんに自分なんかが入っていいのだろうかと思う。自分にふさわしいところってどこなんだろうとよく思い悩む。店員さんに声をかけられることは怖くない。むしろ、店員さんに声をかけてもらえた方が嬉しい。接客されるような対象だと認められた気がして図にのって色々質問したり、「かわいい」って手に持っている商品を褒める。

今日買ったお財布もそんな感じで、だいぶ背伸びをした。お財布を買うと決めて行ったけど、遠くからぐるぐる観察されるだけだったらどうしようと思った。ボロボロの服を着ないように、この前おじさんが「学生さん?」って尋ねてくれた服じゃないワンピースを選んで、強気のピアスをして行った。店員さんが声をかけてくれて心底安心した。

 

人と48時間くらいずっと一緒にいたら疲れちゃってその駅から出ずに見送って帰ってきた。改札で止められて入場料だけ支払って出てきた。

 

自分の、自分だけの部屋に戻って掃除をする。床を拭いて皿を洗ってシーツとタオルケットを洗う。雨っぽい気候なので毛布は今度かな。

洗濯機が回って、掃除の区切りがついたところで財布を眺める。綺麗な深い深い緑の柔らかい皮。黒を買うつもりだったけど、革の質感が好きだったので期間限定の深い緑を購入した。黒が良かった気もするけど、だんだんお財布が汚れてきて私の視力も弱くなったら黒に見えるようになるんじゃないかな。

窓を開けて換気する。騒音はうるさいけど、風が心地よく、新しいお財布とお昼寝をした。カーテンが開いていて肌が焼けてしまうなと思ったが、目を瞑る事をやめられなかった。

一時間くらい眠り、ぼーっとしていた。外の車よりも心臓が トカ トカ トカ うるさかった。

 

 

 

 

ひっかかるもの

 

 

長くブログを書いていなかった。誰かに見せるものとしてではなく、誰かに見せないものとして日記をつけていた。大人になると一年が早く感じる。それは、一日のことを子どものように細かく覚えていないからだとテレビで見て一日一日を振り替えるようにしてみた。細かなニュアンスとかはあまりなくおおざっぱに書き連ねている。そもそも大人が一年がとても早く感じるということは、例えば10歳の子どもにとってその子の一年は1/10で、私にとって1/22で百歳のおばあちゃんにとっちゃ1/100なのだから早く感じるのは仕方がないのではといった友達の理論が納得がいっていちばん好きだ。時間は誰彼に平等ではない。

 

卒業制作が終わりに差し掛かり、展示に向け忙しい日々を過ごしていた。ずっとズルズル続くように思っていた制作物が一度区切りを告げ、ありがたいことに賞をいただいた。親や親戚や他の学科の友達や地元の友達や先生やバイト先の偉い人とかが見にきてくれた。私が制作した物の隣にある「賞」の文字を見ては「賞をとったんだ すごいね」と誉めてくれた。同じ学科の子らには「おめでとう」と祝われた。同じ賞をとった人たちとだけ「わ~~~」とはしゃいだ。ずっと自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

制作したものは発達障害に関する本で、先生からも賞に入りやすいと言われていたテーマだった。こんなことを言ってしまうと「最後なのだから」と意気込んで賞を狙っていた人たちに申し訳ないが、賞に入りたいわけではなかった。

 

自己救済のための制作だった。発達障害に興味を持ったのは、他の人と比べたときに自分にだけ「できない」という劣等感を味わったときにその理由が分からなくて、どうして私は違うのかを知りたくて、発達障害精神障害HSPアダルトチルドレンなど人間の特性についてネットに張りついて答えを探していたその中のひとつだった。誰にも言うことも聞くこともできなかった。絶対に泣いて目の前の相手を困らせてしまう、拒絶されたらどうしようと毎晩泣いて暗い部屋でブルーライトを浴び続けた。

LD.ADHD.HSPどれも当てはまるような気がした。アダルトチルドレンが一番しっくりきたけど、分かったところでどうしたらいいか分からなかった。自分自身が変わることを願って環境を変えた。

そんな中から発達障害を選んでテーマにした。その気がある症状が私にもあると思えて距離を保って取り組めそうだったからだ。発達障害という言葉は本の中には出さずに、こんな特性を持った子どもがいたらどうするといいだろう?とヒントになるように本を作った。他者と違うことで孤立したり拒絶されたくないという自分自身の願いと、症状を持つ人の「障害」を問題視するのではなく、それに出会った人、自身がどう対応するか、関わるかが課題であるということを伝えたかった。

制作中何度も立ち止まった。本やネットで勉強したが、間違っていないか、誰かを傷つけないか、伝わるだろうか、これは面白いのだろうか、正しいだろうか。一番近くにいた先生が興味がなさそうに見えた。いっそう自信がなくなっていった。立ち止まっていても時間は残酷に進んでいく。立ち止まった分寝るのを削って手を動かす。

全体でのプレゼンで自信のなさと人前で話すことが苦手なこと、何を話すべきかさえ分かっていない自分が漏れた。他の先生から「そんな距離で卒制と付き合っちゃだめだ」と言われ、バレたと思った。奥歯を噛み締めて喉を痛めて堪えた後、トイレで泣いた。

ずっとその気持ちを引きずったまま、一ヶ月後に完成させた。時間がこなければ一生完成させないような気がした。不器用なのに自分で製本した。一生懸命つくりましたと言わんばかりの出来映えになった。間違ってはいないけれど。

 

そんなドロドロの感情の末に時間がきたからできてしまった制作物が賞をとったのだ。様々な可能性を考えた。各ゼミに一人は必ず賞を与えるルールがあるとか、あの無様なプレゼンを全員の前で見られた私を肯定させるための賞なのかとか、プレゼンのときに怒ってきた先生が「いい本をつくっているのに、お前よりもこの本をよりよくプレゼンできるよ」と、他の生徒の前でいい作品かどうかを一切言っていないのに、(自分達で上手いこと言っているのだから当たり前だ)発言力を持った大人に言わせてしまったから他の先生たちも影響されたのだろうかとか。

結局、納得がいってないまま、「賞」という分かりやすい評価をいただき、周りから誉められ祝われることに違和感を感じて仕方がないのだ。たとえ賞をいただいていなくても、誉めてくれた人たちは同じように読んで誉めてくれるだろうか。「よく分かんなかった」と印を押されないだろうか。「あなたらしい」と言ってくれる人たちはどのあたりで私らしさを感じたのだろうか。こんな情けないこと、また誰にも言えないところにしか私は私だと思えない。

「賞」という分かりやすい評価がなければ、細部を見てくれただろうか。肩書きとかじゃなくて、名前もないような幸せがいいとかバカなことを考えたりした。

あの怒られたプレゼンさえも「賞」への戦略だと、どうにか開き直って毎日を過ごして記憶を淡くしている。でも、この葛藤も忘れませんようにと、ここに書き留めておく。

時間が経って客観的に見られるようになった自分が私を認められる日がくることを祈って。